母が一人部屋に入ったととはいえ看護士や医者がずっとついていてくれるわけではないので泊まる事にしました。
母は寝ているのですが呼吸が苦しそうでした。
というのも39度近くの熱が常にあり、息をするのが苦しかったのでしょう。
医者に聞いたのですが
「薬与えると心臓の負担になる」
と言われ
「逆に40度超えたら緊急の処置が必要になってくる」
とも言われました。
私の中では39度の熱がずっと続いていることは不安でたまりませんでしたが医者や看護婦からするとそうでもないみたいですね。
そういうケースを常に見てる為でしょう。
「もう少し母を大事に見てくれ」
という思いと
「付きっ切りで見ていないから逆にまだある程度大丈夫な状態なのかな」
と考えたりしました。
既に発症から3日経っていましたが、悪化している雰囲気はなかったので。
会社に行き、家に戻り寝巻を持って夜母と同じ部屋にいました。
することはないので漫画本を何冊か持っていったのですが結局読めませんでした。
脈拍を常に測る機会があるのですが脈拍が一気に上がるときに
「ピー」という音を出します。
母は心臓の不整脈を持っていたので時々200近くまであがりました。
その間隔が短時間に何回もおきていたので私もそのたびに
「ドキッ」としてあまり寝ることできませんでした。
翌日は弟と交代したのですがやはり弟も同じだったようです。
この個室には約1週間ほどいました。
発症から1週間近く経ち母が目を開けている時間が少しずつ多くなってきました。
しかし右半身マヒ、飲み物を飲むことが出来ない。
そして言葉を一言もしゃべれなくなっていました。
そのような状態でも生きていることに本当に嬉しく思いました。
しかしながら意識が戻ったため喉が渇くようです。
えんげ(物を呑み込むこと)が出来なく、水など飲ましてしまうと呑み込めないために危険だと医者から言われていました。
水分、栄養は点滴のみです。母の口の中、唇はからからに乾いていました。
母がおぼろげな目で左手を動かし飲む仕草をして水を求めてきます。
薬局で買った口の中を掃除するガーゼで口の中を湿らせてあげます。
しかし最初は良かったのですが母としては物足りないのでしょう。
口の中を拭いた後でも水を飲む仕草を何度もします。
優しく説明するのですがあまりにもつらそうな表情をずっと続けているのでガーゼに少し水を含ませ、ほんの少し口の中に入れてあげると嬉しそうな表情をしていました。
ただ弟も同じことをしたときに少し量を多くしてしまったのでしょう。
呼吸が出来ないような表情になり、吐き出すことも出来ないようでした。
唸り声をあげて苦しんでしまったことがあり、そこからは
可哀想ですが水をあげるのをやめました。
やがて急性期といわれる2週間がたちました。
この時の母の状態は目を開けてる時間が長くなり、少しだけウイダーインゼリーのようなものをゆっくり少しだけ飲めるようになりました。
ただベットを水平にしていないと常に駄目な状態で、少し角度をあげると呼吸が出来なくなって苦しみます。
ただこの時は2週間たち植物状態にはならなかったこと、生きていてくれたことに本当に感謝でした。
ただこの先の事は大変不安です。
まだほんのスタートに過ぎません。
脳梗塞に身内がなってしまうと初めはこのような状況に
なると思います。
「親が脳梗塞になってしまった」
よくこの後聞く話でした。
普通に親がなってしまった場合このように看病に行って
心配すると思います。
後は定期的なお見舞い。
私の世代が近い人間はここで話が終わりました。
一人で全部やる場合、話の内容はこれで終わりではありません。
この2週間の間だけでも色々なことがありました。
この話は誰にも理解されませんでした。
なぜなら誰も周りにこういう経験している人間がいないので。
それはそうだと思います。
私も母が倒れる前日まででしたら理解できなく
話を聞いたとしても
「大変だね、、、、」
というしかないと思うので。
そしてその
「大変だね、、、、」
と言われるだけで終わってしまう他の人たち。
そのたびに
「誰にも理解されないんだ」
と悲しみ孤独になっていきました。
次の話で現実的なお金の事や、役所、保険、病院などでしなくてはいけないこと書きます。
その上仕事も行ってました。
私はあまり根性のない人間です。
しかし「母の為」と思うと力がみなぎりました。
今思うと常に怒っていました。
落ち込むとパワーが無くなるのが分かっていたので
怒ることで元気にしようとしてたのでしょう。
本当に落ち込む状況の時は怒った方が
心のバランスとれると思います。
ただもう2度とこのような経験はしたくないです。